昭和51年10月10日 月次祭
かつらぎ教会
「信心のある者とない者は、親のある子とない子ほど違う」と仰せられますが、お互い、そういう違いを感じさせてもらうところに、信心を頂いているということがありがたい。そのありがたい生活をさせて頂くということが、天地の親神様の願いでもあるのですから、どうでも、親のある子とない子の違いを感じさせて頂けれるような信心、またはおかげを頂かなければならんと思います。
今日、午後の奉仕の時でございましたが、北九州から、関屋さんという方達がおかげを受けてお参りして来られましたが、月に二回ぐらいしか参ってきませんけれども、今日は、一族郎党と申しますか、飯塚の弟さんたち御夫婦も一緒にお参りでございました。
自動車三台に分乗してお参りになられて、その飯塚の弟さんたち夫婦というのは、ついこの頃まで、学校の先生をなさっておられて、退職をなさった。たくさんの退職金を頂いて、現在では夫婦で飯塚の【 】の方で、バラ作りをなさっておられる。今日も、その自分が作ったバラだとことで、たくさんバラを持って見えられました。それこそ、バラ色の人生、幸せそのもののようにあるのです。
ところが、実は、話を聞いてみると、大変深刻な悩みがある。その関屋さんは姉さんに当たられる。この頃から、姉のところで、皆都合よう行っておる。兄弟達もいくらもおりますが、子供達が嫁達が子供達までが、金光様にお参りしておる。
そして、その、関屋さんも弱かったそうですけども、この頃は薬のくの字も言わん。そして、まあ、皆が具合よう行っておるので、それを見るにつけても、これは信心というのは何かあるばいというので、連れて参ってもらいたいと思うておって、今日念願が叶うたと言うのです。
ここで、ずっと、その、お母さんをはじめ、兄弟、子供達が皆お礼お届けをするんです。先々月ぐらいから、福岡の方で焼き鳥屋をしよりまして、弟さん夫婦が、ここにお参りするようになって、焼き鳥屋さんが、売り上げが倍増した。朝おかげの泉を読んで行かん時は、間違いなく売り上げが少ない。朝おかげの泉を読んで、夫婦の者が神様の御祈念をして出ますと、もう本当に不思議なくらいにおかげを頂くというお礼のお届けをなさいました。
その次の弟さんの嫁さんが、お母さんと一緒にこのようにしてお参りさせて頂くようになって、「飲む薬が効くならか飲まなにゃならんけれども、効かんごたるなら止めなさい。もう、金光様信心するなら、ご神米とお神酒さんでおかげが頂けれる」と聞かせて頂いて、薬を止めて、ご神米とお神酒さんでおかげを頂いとりますが、ここ二、三か月間の間に、長年の婦人病が、もう忘れたように、おかげを頂いておるというお礼のお届けがあった。
一番上の兄さんは、この頃から電話で、工場を建てるのに、その隣の敷地を欲しいと思うけれども、頑固な地主さんで、絶対売りも貸しもせんと言うので、せめて貸して頂けなくても、年限を切ってからでもよいから、貸してもらいたいので、今からま一遍お願いに行きますから、お願いをして下さいという電話がかかってきて、それが、おかげを頂いて、まだ貸すとまでは言わんけれども、もちろん売りはしませんけれども、まあ、貸すだけぐらいなら、都合じゃ貸してもよいというところまでおかげを頂いておるというのです。
それこそ、沢山な退職金をもろうて、しかも健康はそのもののご夫婦です。そして、夫婦でバラ作りをして、いかにも幸せそうなところですけれども、話を聞けば聞くほどに、もう、おかげ頂かにゃいけませんねというような問題を抱えておられる。正に親のある子とない子ほどの感じた。
お姉さんの家が、沢山お金が出来て、どうというわけでも、特別のことはないのだけれども、日々がおかげの中に、言うならば、親のある子とない子ほどの違いを、そこに感じておられるわけであります。
これは、今日の午前中でしたけれども、福岡の松岡さん達が、皆で参って見えました。おかげを頂きまして、今度、四階建ての鉄筋コンクリートの家が建ちよります。おかげを頂いて、もう三階までが出来て、あともう一階出来るだけになっておる。お母さんが、「本当に私どもが、親先生のお許しを頂いて、どうとかすればというので、福岡に出らしてもろうて、まあ、【 】というて、まあだいたい、西鉄の商店街の中に、まあ商店があって、入ることになっていたけれども、そこはいけないということで、当時は寂しかった唐人町の方へおかげを頂いたら、すぐにお許しを頂いたが、本当に唐人町でなからなければならなかったと思われる、いろいろなおかげを頂いて、どうしたならば何千万円もかけて四階建ての家に住まわせて頂くことが出来るだろうかと思うたら、お父さん、子供達と一緒に、神様のおかげばい、親先生のおかげばいと言うて喜んでおりますと言うて、日に日にお礼を申しております」と。
いわゆる、何とはなしに、一年一年おかげを頂いておるわけであります。親のある子とない子ほどの違い。
そこで、これからは、あの世へ行っても、やはり親のある子とない子ほどの違いを頂かしてもらう信心を頂かなければならない。この世では、まあ言うなら健康で、おかげを頂いて、お金にも不自由しない、家庭も円満といったわけでは、あの世では、この世でお金が役に立ちますけれども、あの世では、お金やら物やらでは役には立たん。神様のギリギリの願いというのは、「氏子信心して」ということは、氏子信心して、いわゆる信心です。真心、神心、神様を信ずる心をいよいよ強うならしてもろうて、神様のご信用を頂き、神徳を頂いて、あの世でも、親のある子とない子ほどの違い、言うならば、暗黒の世界におる御霊と、光明の世界に住む御霊と二つに分かれてくるのですけれども、その、光明世界に住まわせて頂けれる、ご神徳を頂く信心をここからなされていかなければならんのです。
先ほど、田中先生が前講でお話しを致しておりました。お母さんが宮崎の方におられる。前々から信心をしておるけれども、以前は信心を頂いておっても、十日のうち九日は苦しいことばかり、まあ、あとの一日が、まあありがたいと言うならありがたいといったような信心から、もうこの頃は、毎日毎日がありがたいおかげを頂いて、その周辺には、「田中先生、田中先生」と言うて、集まってお話を聞きにくる人たちで、賑わうほどしのおかげを頂いて、田中さんが電話をして来られると、一時ばかりは、私の声を聞いたらものが出らん。電話の向こうで嗚咽しておられる。「先生、勿体ないおかげを頂いて」と言うのが一番です。そして、「こういうおかげを受けて、ああいうおかげを受けて」という御礼のお届けがございます。
それは、もちろん、形の上にも、ご都合お繰り合わせを頂いて参りますけれども、言わば、心が助かって行っておるということでございます。
最近、ここで毎日言われております、「合楽の信者、合楽の信奉者の自覚に立って」という、「私は合楽の信者でございます」という、その自覚に立つ時にです、信心にならなければ相済まん。「あの人たちは合楽に参りよるげなけれども、あの人たちの」と後ろ指をさされるようなことでは、神様に相済まん。それは、自覚がないからであります。
自覚が出来て参りますと、言うならば、教えを身に付けていく信心生活が出来て来なければならん。そこから、心の助かり、心がね、どういうふうにして助かっていくかというと、神様の、いわば親のある子とない子ほどの違いをおかげの面で、先ほど二人の例を申しましたようにね、頂きます。神様ちゃ間違いのないお方である。神様ちゃ有難いお方であるということが分かってくる。そこからその神様のお心が分かってくる。
今朝の御理解の中にも、「獅子は千尋の谷に自分の子供を突き落として、そして、それを、登ってくるのでなからなければ育てない」という例えの話がございますが、この天地の親神様は、氏子が難儀をしておれば、それこそ、難儀をしておるところに降り給うて、そしてそれを、後から押してやらないばかりに、「そこに手をかけてはいけない、ここに足をかけては危ない。さあ、ここに手をかけよ、ここに足をかけよ」と、後から、それを教えて下さりながら、頂上を、言うならば、上に上がり切るおかげを願うておられるのが天地の親神様だということです。
突き落としておいて、上からじっと見ておるというような親では決してないというのです。本当に、そう言われてみれば、言われておる、これは私自身のことですけれども、ああいう難儀な中を、ようまあ、ああいう、言うならば、有難い勿体ないで通らせて頂いたというのも、こういうところにとても登れそうにもないところを、今から考えてみると、登ってきておる。それも、神様が、手をかけるところ、足をかけるところをお指図下さりながら、登って来ておるという事実を思います時に、確かに、この神様はそうだということが分かります。
言うならば、信心の自覚ができるということは、信心に目覚めるということでございます。信心に目覚める。そして、どういうところに目覚めてくるかと言うと、これも今朝の御理解の中に、例えば、「辛いこしょうが辛くなかったら、もうこしょうの値打ちはない」と言うのです。「このこしょう、いっちょん辛なかじゃんの」と言って、ポンと捨てられるです。こしょう辛いが値打ち。
人間万物の霊長がと、いかに言うてもです、万物の霊長としての値打ちはどこなのか。霊徳が清められ、いや、心が清められ、心が磨かれて、霊光を放つほどしのおかげを頂いて初めて人間の値打ちがある。これは宗教的な考え方からなんです。
宗教的考え方からするとです、私どもの心が磨かれて、清められて、心に霊光を放つ、光を放つばかりのおかげを頂いたら初めて、人間万物の霊長としての雄姿が備わってくるのでございます。
私は、昨日、どうにも感動のない私も感動させてもろうた。神様も感動であっただろうと思うのです。勿体島から、国師さんという方達が夫婦で参ってきて、ご主人が体が大変弱くて、まあ大変なところをおかげを頂いた。
もう二、三か月にもなりますでしょうか。お参りをして、家を留守にしておる間に泥棒が入った。もう家のごと何もないところに来て、近所にはこんなに分限者がいっぱいあるのに、家ぐらいの貧乏人のところに入らんでもよかりそうなものなのに、そこに、それこそ、選り選ったようにして、泥棒が入った。
そして、まあ一月ばかり給料までには、随分期間があるというのに、もう、その給料の全部を取られた。お金だけ。それから、そのお届けに見えて、警察に届けてある。けれども、そん時にはもうお初穂がなかったから、裏におられるお父さんからお金を借りて、そして、その、泥棒に入られた御礼のお届けがございました。そして、また、その泥棒もです、どうぞ、悔い改めることができて、改まった生活に入ることができるようにというお届けがあっておる。
それがね、警察に連れて行かれるところが、その泥棒が捕まった。ところが住所不定で、いつも自動車一台持っておる。そして都合のよかところに止めてから、その自動車の中におって、いろいろなもんば取ってくるとが常習犯らしい。
だから、「あんたところの場合は現金だから、返るとは思いなさんな」と言われておりましたから、もちろん、もうそれこそ、主人が弱い体でありますから、もう、お取り払いを頂いたと思やあ、もうほんとに安いもの。今月一杯は、どうかこうかしてでもと言うて、まあ一月、乗り越えられたんです。
昨日、参って見えてから、もうそれこそ感動一杯でした。突然、お客さんが見えて、と言うのはです、その泥棒のね、お父さんという人が訪ねて来た。そして、その、子供の否を詫びて、「本当に相済まんことでした」と言うて、盗った金額だけを返しに見えた。もう、夫婦の感激は、それこそ、もうお取り払いを頂いておるとお礼を申し上げておるのであるから、大難は小難でお祭り替え頂いておると思うておるのだから、私が、私視したんでは相済まんと言うて、その全額をお供えに持って見えられた。
そして、その、後がね、もう本当にありがとうして応えんという、ありがた涙に暮れておられるのを見て、あれが神様の喜びであろうと私は思うた。これは心が助かって行きよんなければ、そんなことはできん。また、心が助かって行っておるという、言わば、実感がなからなければ、そんなことはできません。また、神様を信じなければ、そういうことは出来ません。沢山なお金ですから。
神様を信ずる、神様の働きを分かってくるというところに、心の助かりがあるんです。ただ、おかげが頂けれるという、おかげを信じるのではなくて、例え泥棒に盗られても、神様のお働きの中にあることだ、祈りの中にあることだとして、それが信じれれる心の状態を、私は、人が助かっていくというのがあると思うんです。
それが最近、繰り返し頂いております、「寛」の字、寛いという、ウ冠に草冠を書いて、見ると書く。お互いが大きなおかげを頂きたい、広大無辺のおかげに触れたい。そのためにはです、神様の働きが分からなければいけない。神様のお心が分からなければいけない。神様のおかげが分からなければいけない。願うたことが成就した、そのおかげなら誰でも分かるけれども、「信心しておれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多い」と仰せられる、目に見えないおかげの分野が分かってくる。
国師さんの場合、目に見えない分野が分かってきた。なるほど盗られた。今月の生活はどうしていくかというようにあるけれども、神様のそれがお取り払いと信じれれる時に、盗られたこともまた有難い。そしてその泥棒さんの、言うならば、更正を願われる。そこに、何ヵ月か後にはそれが返って来た。言うならば、向こうも改まってのお詫びであります。
私は、どんなに問題がありましても、苦しいことがありましても、それをね、神様を信じたら、それが神様の働きと見る。ウ冠というのは宇宙の宇です。天地の親神様ということです。草冠というのは、自然ということです。自然の働きということです。天地の親神様の、その自然の働きが私の前に現れてくる。だから、それを神の働きと見るというのですから、それが痛いことであろうが、痒いことであろうが、損をするようなことであろうが、神の働きと見るところから、御礼が言えれる心の状態が開けてくる。
私は、ここに至った時に、本当の意味においての、親のある子とない子ほどの違いの信心が分かった時だと思うのです。
本当におかげを頂いて、商売が、言うなら売り上げが倍増して、おかげで永年の婦人病が治った。交渉事がまとまるようにお取次を頂いて、まとまるきっかけが出来てくる。もう、それは不思議な不思議な働きである。そういうところに、親のある子とない子ほどの違いを感ずるというのは、それは現世においての親のある子とない子ほどの違いである。そういうおかげだけは、おかげはあの世には持って行かれません。力であり、光であり、お徳なんです。
その光が持って行ける。お徳が持って行けれる。自分の心が、いよいよ神様を信じ、いよいよ神様が分かり、神様の働きをそのままに、こういう難儀な問題が起きて来てというのではなくて、それを自然の働き、神の働きと見る頂き方が出来る時に、心がいよいよ広く寛大になるのです。そこに、寛大なおかげもまた約束されるわけです。
そこに、心の助かりがある。それが、積もり積もって、徳にも力にも光にもなって行くのです。その光こそが、あの世でいよいよ、親のある子とない子ほどの違いを感じさせて頂けれるほどしのおかげになるのですから、まずは、商売の上にも、健康の上にも、言うならば、ご利益を頂かなければなりません。
同時に、そこだけではいけません。もう一つ向こうにあるところの、心の助かりを頂かしてもろうて、その心の助かりのみが、あの世に持って行けれるものなのですから、あの世でもこの世でも、親のある子とない子ほどの違いが感じれれる信心を頂きたい。
いよいよ、十六日の御大祭。そういう、例えば、形の上からでも助からなければならない人が、皆さんの周囲に一杯あるはずなんです。御大祭の御比礼に浴して、そこから御神縁を頂く人達が、御大祭たんびんに必ずあります。そういう人たちのために、御大祭には一人でも多くのお導きをさせてもらい、合楽示現活動に参画さしてもろうて、おかげを頂きたいものであります。
案内がたくさん出来ておりますから、どうぞ案内を頂いて、そして、そういう方達、いわば周辺に、親のある子とない子、いわゆる、親のあることを知らないで、難儀をしておる人たち、それは、いかにも、健康でバラ作りのおかげを頂いておれば、幸せそうに見えるけれども、一歩中に踏み込んで見ると、今日は私がお話しさせて頂いたような難儀を抱えておられるということです。
そこから助かって行く手立てを作ってあげたら有難いことだと思います。どうぞ。